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2013年4月18日木曜日

俺の初音ミク5、または虐殺器官のこと

初音ミクっていうか単なる俺の日記になってないか、これ。のコーナー。




Amazonの注文履歴が延々残ってることに気づいた。
私の最古の注文は2004年でサムライチャンプルーの一巻目を買っていた。

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今見たら中古で1円からあるぞこれどうなってんだ、とかはさておき。
2004年中は7回しかAmazonで物を買っていない。それから数年は似たようなもので、学生時代とそれに続く新卒で入った会社でお金が無かったのかなという感じ。
それからもう10年近くも月日が過ぎて、今年の四月までで私はAmazonで70回も注文している。もっとも電子書籍を一冊買うとそれが1回とカウントされるので、実際に物を買ったのはもっと少ないはずだけど、それでも3,4日に一回はAmazonで買い物をしている。
そら日本の小売りも圧迫されるわなぁという感じ。

もっとも、そんな話はどうでもよくて。
本当なら自分ですら忘れてしまったようなあれこれが、外部化されてどこまでも集積されていくとき、そこに浮かび上がっていくのはどういうものなのだろうなと思う。それを見るとき、私は私の姿を、誰か他人が私を見たときのようにして見るのだろうか。
それはどんな私なのだろうか。
本当の私は他人が思っているのとちがう、というのは子供の自己形成の途上で良く聞かれるような言葉だけど、自分は自分を客観視できない以上、自分の姿を知ることなんてできないのだから、より真実に近い言葉は、本当の私は私が思っているのとちがう、ということなのではないか。

ただ私だけが私を知れないわけではなく、他人もやはり私を知ることなどできはしない。
行動記録が残されていくことと、アイデンティティについては伊藤計画が虐殺器官で描いていた。
作中で主人公は自分の記憶に残っている母のことを思い、ずっとそのことを考えながら物語は進んでいく。その世界ではいろいろなブログや生活の記録なんかをライフログという形で残せるようになっていて、やがて主人公は死んだ母のそれを見ようと思う。
しかしそこに見えてくる母は、 主人公の思ったものとは違っている。

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Amazonの記録に依れば私はこの本を2007年の10月27日に買っている。
これを書いた伊藤計画は2009年3月20日に死んだ。インターネット上には2007年の1月7日に彼の最後に書いた記事が残されている。私は伊藤さんがプロの小説家じゃなくてメタルギアや映画の話をサイトに書いていた頃に知って、なんて上手い人が居るんだろうと思って憧れていたので、亡くなったと聞いたときにショックを受けた記憶がある。

まあ、なんとも時間は過ぎていくものだなあなんて陳腐な感想くらいしか湧いてこない。
人はみな消えていき、巨大なデータベースの他にそれを覚えているものもいない。
いつかネット上は死んだ人の更新の途絶えたブログだらけになるんじゃないか。
いや、ならないんだろうな。この地表が墓で埋め尽くされることがないように。忘れて良いと検索エンジンに判定された死者の記録はもはや誰の目にも付かないどこかに埋まってしまうのだろう。そう思えば、案外今と変わらない気がする。覚えている形態と、その期間が変わっただけだ。いつかは忘れられる。