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2018年10月12日金曜日

手を汚すことをいとわない

手を汚すことを気にしてはいけない、というのは別に犯罪とか社会的にダーティな話とかではなくて、ものを作ったり、何かしらの(本当の意味での)汚れ仕事をするときの話。
子供の頃は絵に色を塗ったり、粘土でなにか作ったりするのが好きではなくて、なぜだったかと考えてみると、手が汚れるのが嫌だった気がする。より厳密に言うと、ここが重要なのだけど、手を汚れないように気をつけなくてはいけないと思っていたのが、嫌だったのだ。

たとえば粘土に手で持って色を塗るときに、手を汚さず、キレイに塗ろう、というのは2つ同時に行う必要があり、不器用な私には難しかった。それをやろうとすると、キレイに塗れなかったり、手についたり、失敗したという気持ちになるばかりだった。
今も同じく不器用なのだけど、今は、全然汚れても構わないと思っているので、キレイに塗ることだけに集中できて、作業は簡単になるし、色を塗ることが大好きになった。手なんかあとで洗えばいいし、洗って落ちなくても何日かすれば消えるし、何も気にすることなどないのだと、いつかから思うようになっていた。

結局、自分は手が汚れるのが嫌だったのではなくて、手を汚してはいけないという風に考えているときに手を汚して、ミスしたと思うのが嫌だったんだと思う。そして手を汚さないというのは、案外難しいことであるように思う。それならば、手が汚れるのにそこまで拒否感がないなら、そこまで気にしなくて良いではないだろうか。

ということを、赤ん坊のおむつをかえて、おしりを拭いているときに再確認した。
赤ん坊のおしりをキレイにしつつ、自分の手も完全にクリーンに保つ、と思うから面倒くさいのだと思った。別に赤ん坊に触れるところでなければ、多少ついてもあとで洗えば良いんだから、とにかく赤ん坊のケツをピッカピカにすることが一番重要だ、と思ったら、一気におむつを変えるのが楽になった。



もっとも、賢い人は手袋をつけたりするのかもしれない。

2018年9月19日水曜日

日常の終わり/施川ユウキ『銀河の死なない子供たちへ』

うちは築不詳(少なくとも40年超)というような非常に古い借家で、地震なんて来たらいつ崩れるかわからないというような家だ。つい最近、関西では割と大きな地震があって、眠っていた私は大きな音が聞こえると同時に、跳ね起きて、眠っている次男に覆いかぶさっていた。それから1,2秒くらいで、家が崩れたらひとたまりもないと考えて、未だ眠る2才児を抱きかかえて玄関まで走った。
長男は少し前に小学校に向かっていたので、妻は慌てて外へ出ていった。長男はもう学校についていたようで、ほどなくして妻は帰ってきて、それからしばらくして休校になり、再び妻は息子を引き取るために出ていった。
私はなんとか動いていたバスで職場に向かい、何もなかったような顔で仕事をした。

日常は何もなく続くような顔をしていて、するり、と終わる。

施川ユウキの『オンノジ』はちょうど東日本の大震災を挟んで作られたもので、突然世界から人が居なくなって、日常が終わるところから始まる。ただ悲劇的な色はなく、物語のトーンは(サナギさんとかみたいな)いつもの施川ユウキのトーンで、喋るフラミンゴのオンノジと非日常の中に日常を見出すような形で続いていく。
その後に描かれた『ヨルとネル』はいつものトーンを持ちつつも、遥かに暗く先の見えない、悲しい予感に満ちている。日常など元よりなく、オンノジにあった希望がそこにはない。あるいは語られていたとしても、ミヤコがそうしているようには、純粋に信じられてはいない。
オンノジとヨルとネルは舞台設定なんかはまるで違うけど、その根底にあるものとしてはとても近いものがあって、どちらもものすごく頼りない希望にすがって、非日常の中で生きるという話だ。双方は相反するように見えるけど、どのみち希望に根拠がなく果てしなく脆弱であることは変わらず、世界は自分の前に圧倒的で、なんの歩み寄りもなく、いつ再び非日常の中の日常すら終わるかしれないということは変わらない(一度そうなったように)。

しかし、とはいえ生きねばならない。

すごく頼りないような日々でも、もしかして希望もないのかもしれないけど、実際には我々の人生は、漫画のようには簡単に終わらない。生きねば、とナウシカが言ったように、生きねばならない。『銀河の死なない子供たちへ』は、それを軽やかに、ある意味不格好なほどにものすごく直接的に描いている。あるいは、だからこそ、この漫画は今まで見たことがないくらいに力強い。そして果てしなく愛に満ち満ちている。
はるかな日々の先には、やがて死が待ち受けているのだけど、いつかは誰もが死ぬのだ。それでも、見たことがない世界へと、希望を抱いて行くのだ。その希望は決して脆弱なものではない。根拠のない希望というけれど、もとから希望に根拠なんてないのだ。それでも私達はそれを抱ける。生きていることこそが希望だからだ。


余談。日常の終わり、という例として持ち出してはみたけど、東日本の大震災の頃ほどには、今回の地震で日常が終わるような感じを受けたわけでもない。というのも、今の自分にはあまり日常たるものがない。ひとり、ふたりと子供が生まれてからこっち、安定して飛ぶように過ぎる毎日みたいなものとは無縁になってしまった。やれ、子供の歯がコケて折れただの、幼稚園で小突かれてた相手をひっぱたいただの(その後仲良しになった)、心臓の検査にひっかかっただの(なんでも無かった)、ちょっとうちの子落ち着きないんじゃないか、とか、次男なんだか小さいとか、次男なんだか喋るの遅いかとか。自分の都合ではどうにもならないような問題が次々発生して、のんびりやってる暇がない。
妻と結婚してから子供が生まれるまでの数年なんて、まばたきをする間に過ぎた気がするのに、子供が生まれてから6年間は果てしない時間のようだ。子どもたちに出会う前の自分なんかはるか昔に消えてしまったような気持ちさえする。
子育てというのは非日常的なものなのだと思う。


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2018年9月18日火曜日

ごはんうまい

ごはんのうまさすごい。
毎日飯食うのが楽しい。

何もできない気持ちになる夜

何も自分にはできないと思うことはよくある。実際に自分がなしてきたことなどほぼない。ただ毎日なんとか飯を食うべくやってきた。それだってすごい、なんて慰めがあるだろうがそういう話をしていない。

もっとできるはずだと、思っている。いつも作ってるものは、日々の忙しさの中で、なんとか出力するためのものだから大したことがないのだ、と。
しかし本当はこれが自分のすべての力なのかもしれない。ちゃんとしたものを作ろうとするといつでも手が止まる。私は脆弱で、怠惰で、無能であり、ちゃんとしたものなど、もとより作れないのかもしれない。そう信ずるに足る長い日々を、ひたすら無為に過ごしてきた。

もっと自分の作品を、それも、たくさんの労力がかけられた、自分で作ってよかったと、疑念の余地なく思えるものを作りたい。もはや歳的にも猶予があるとは言えなくなっている。

2018年9月12日水曜日

ダイソーのマーカーと、自作ニセコピックエアブラシシステムと、Vtuber



3Dプリントをごく雑に塗ったりして、実用性のないものを作っている。
自分の腕前ではあまり思い通りのものが作れず、ごく単純な形の組み合わせ以外にはなっていないが、それなりに楽しい。

最近、ダイソーで安いアルコールマーカーがあるということを聞いて、全部買ってきた。ただ、雑だとムラになりやすいことから、あまりマーカーで色を塗ることが好きではなく、適当にアタッチメントを作ってコピックのエアブラシ風に使ってみた。

あまりかっちりはまっているものではないので、動画中にはないけど、ずれたり、距離が微妙になって色が薄くなってしまったり、うっかりマーカーを開けたまま昼寝して乾いたりで、それなりに苦労があった。普通にインク使ってエアブラシ吹くより楽かと言うと、微妙なところである。

とにかく適当に物を作るのは楽しいが、3Dプリントは表面仕上げをしないとガタガタなので、実用品じゃなくて造形に使うなら、もっと精密なプリンターがほしいなあと思う次第。



最近流行ってるっぽい安くて高精細の光造形3Dプリンター。