激しい雨が降っていたのに、帰る頃には晴れ間すら見えた。
世界はどうにも自分の預かり知らない力学なるもので動いていて、何をどうしても無駄なんじゃないか、というのが私の世代か、少し上の世代から延々続いている時代感覚ではないかと思ったりする。私の時代の少し上には、その日常を破壊せんという感じの話がいくつもあり、そんな日常でもよいではないか、というものが私の時代に作られ、地震と原発によって我らの日常は奪われた、とはいえこの日常の終わった先に何があるかをちゃんと示した作品はまだあまりない。少なくとも非常に大衆に広く知られるようになったようなものではない。たぶん。
結局その先にも日常が続くんだよ、というのは正常化バイアスにまみれた希望的観測に過ぎない。先の戦争で死んだ人も、先の先の戦争で死んだ人も、先の先の先の戦争で死んだ人も、それぞれの日常を持っていたのだ。日常は奪われる。ある日、なんの脈絡もなく、善人だろうが、偉人だろうが、幼子であってすら、唐突に奪われる。
ただ、それでも私は、私達は、希望に満ちた、甘い空言ではなくて、信じられるような強度のある物語を紡がなくてはならない。生まれついての魔法も、トラックに轢かれた異世界もないこの場所で、それでも確かに世界はやはり我々のものだと信じるに足りる嘘を。
我らのために。我らの子のために。我らの子の子のために。