過去には自分が言葉で何かを書けたのだという記憶だけが残っている。今はもう何かを言葉で書けるという気はしない。すべてはひどく不格好で窮屈だ。それらは老いていく私の硬くなった関節のように、ぎしぎしと音を立てて、二度とうまく行く気配すらない。
あるいは、元からうまく行ってなんかなかったのかもしれない。ただ記憶の中だけに存在する美しい何かだったかもしれない。思いついた気がする優れたアイデアが本当には存在しないように、何かができたことなど本当にはなく、奪い取られたという喪失感だけがここにはある。
奪われたのか、元からないのか。
作ったものを大事にするという気持ちがほとんどなくて、私の手元には何も残っていない。動画という形でしか見ることのできないそれらは、どこかへ行ってしまった。私の作業机の上には、いつも作りかけの何かだけが残っている。こうしたどうしようもないやりかけの何かが私である。
村上春樹は朝飲みかけのコーヒーを置いて行ってしまうようなものが死であると言った。嘘である。詳細な文言は覚えていないし村上春樹が言ったかどうかも覚えていない。カーヴァーとかチャンドラーとかサローヤンとかが言ったのかもしれない。しかしその辺が言ったのなら、村上春樹だってきっとそう言うんじゃないか。たぶん。
ともかく私の机の上には作りかけのおもちゃが置いてあった。これが私である。
これが私である。
いや、なんだこれ?