何かをやらなくなる理由というのはなんだろうと昔から考えてきた。私は小説を毎日書き続ける生活を6,7年間以上やっていたのに今は書こうという気すら持っていないし、昨年の夏頃には毎日動画を上げた週もあったのに今や数ヶ月も動画を投稿していない。
これらは狙ってそうしているわけではなくて、自分の意思とは別にどうにも気持ちが乗らなくなるという曖昧な理由で引き起こされている。その気持が乗らなくなるということがどうして起きるのか、それについて最近なんとなく解が見つかったような気がしている。もっともそれは自分の場合で、他人に当てはまるかどうかは知らないし、一時期自分の中で正解に思えたようなことが、あとになると全く勘違いであったということもよくある。
まず前提として、自分のやる気というのは自分ではコントロールしづらいということである。やる気を出せとか、そういうことを人にどれだけ言われようと、あるいは自分で鉢巻を締めて、部屋中に自分を励ますスローガンを貼りまくろうが、やる気なんてそうそう出るもんではない。それが明らかに自分にとって有益なことだとか、必要なことであっても、頑張ってやろうという気持ちに直接つながることはない。
これはまあ、そういうものだろうと思って生きてきたが、なんとなく最近気づいたのは、人間のやる気というか、自分の気分を決定しているのは意識とかよりもっと単純な部分であって、それは意識よりもっと簡単な仕組みで動いているということだ。それは単純であるので、直接的に行うことが快楽に通じると分かっていれば、やる気を出してくれるし、そうでなければこれをやることはやめようとブレーキをかける。
この機構が非常に単純であるというのが自分の最近納得したことで、それはたとえば「毎日絵を練習したらいつかもっと上手くなって楽しいかも」みたいな曖昧な理由ではやる気を出してくれないし、「毎日やってるけど結局うまくなってないし、これからも駄目かも、でもやらねば」みたいに思ってると、(よくわからんが気分がトータルマイナスな感じだしやめよう)とか判定されてやる気の供給を止める。
じゃあどうすればいいのかと言うと、単純に「俺はどんどん絵が上手くなってるし、今にプロになるし、超有名になって金を沢山もらえるし、みんなに尊敬されて気持ちいい」とか中学生のように考えることだ。自己啓発セミナーみたいである。あるいは宗教のようである。
ただ、更に自分が感じたことは、自分のこの機構は本当に本当に単純でバカなので、自己啓発セミナーや宗教が言うように、成功を疑いなくきっちりと信じる必要などないということだ。というか意思の力は関係なく判定されるというのが上の話なので、強く信じることは大した意味は無い。というか自分の感覚では、たぶんこの機構は、というか感性を司ってる部分の自分は、何かを信じているとか、何かを予想しているとか、何かを空想しているとか、その辺の判断はあまりついていない。単純にイメージを浮かべていれば、そうなる可能性が高いという風に判定しているのではないだろうか。出力結果の快楽・不快度合いだけで判定しているのであって、それが何なのかは特に考えていないのだ。
なので、自分が描いた絵でお金をもらってるイメージとか、自分が描いた絵の個展やってるイメージとか、自分が文化勲章をもらってインタビューされているみたいな空想を頻繁に浮かべていれば、やる気を生み出す機構は成功の確率が高く報酬が大きいと勘違いして、自分を突き動かすようになるのだと思う。
そうして振り返ってみると、読者もさほどいない小説を何年間も毎日書き続けていた頃は、寝る前に自分の小説についてインタビューされるなんて妄想をよくしていた。別に成功すると固く信じていたわけではないし、小説を書くことによる報酬なんてほとんど無かったけど、それでも尽きぬやる気によって何年も小説を書き続けることが出来たのは、やる気を作り出す機構が毎日繰り返される妄想によって、これはどうも成功が近いと判定していたからではないかと思う。
こんなことを考えはじめたのは、つい最近、昔に比べて今のほうがはるかに生活も楽になったし家族も出来たのに、なぜやる気を失って長期にわたって作業が中断するようなことが起きるのかなと感じたからだ。そういえば昔は今よりはるかに身のない単純に楽しい空想をしていたなと思って、お金すごいもらえて色々買い物するとか、自分のやってることがどれも大成功するとかそういうバカな空想を、昔していたように何日か浮かべていたら、図らずもなんだか楽しくなってきて、ついでに作業が進み出した。何故かは知らんがお金すげえもらえるなら日々頑張ろうとかそういう気持ちが湧いてきた。
これまで長期的に何かが中断したときに、それが再開したことというのは実際のところ殆ど無くて、すさまじく長く忘れるくらい時間が経ってからたまたままた別のやる理由を見つけるとか以外で、単純に心の持ちようなんてもので何かが変わったのは初めてのことだった。
なので、単純になんの根拠もなく、自分で信じてすらいなくても、うまくいったときのことを全然リアリティなくてもものすごく大げさにイメージするなんて、超バカっぽいライフハック的なことではあるけど、自分がこれを忘れないようにしっかり文章で書いておこうと思った。
考えると、これまで何かが楽しいかもしれないと思って何かを初めても、いつだってがっかりしたくないという理由でどうせ駄目だろうとか、上手くいかない気がするとか、そういうことばかり考えて、根拠の無い希望なんて持ったことがなかった。そうして、多くのことがいつの間にかやる気を失い、放置されてきたのだけど、これは単純に自分が自分の中のやる気を判定する部分にネガティブな材料を沢山提出したせいで、やめたほうが良いと総合的に判断されたのではないかと思う。なぜかやらなくなった、と自分では思っていたけど、単純に見通しが暗いし作業も面倒くさいことはやめようという単純な足切りを食らっただけなのだ、多分。
もっともこれでこの先も上手くいくかどうかは、さほど自信もないのだけど、こんな風に考えることで、自分の夢だった、みんなが面白いというような小説を書くということにまた挑戦出来るかもしれない。そう考えることには特に根拠はなくとも、そんな風にイメージすると、希望を感じる。やる気が湧く。