大きな野心などは捨てて、すこやかなる創意を宿して、日々を穏やかに生きていければ、というような意味のことをひょうげもので利休が言っていて、それに強く同意するところがある。それなりに何かを作っていければと日々思うし、ちょっとした創意で自分らしく自分の好むものとともに生きられたら、それはよい。大変幸せな感じだ。
もっともひょうげもので人々の創意というのがどう描かれているか、そう言った利休がどのような行末なのかを見れば、実際のところ作者がどう思っているかは見える気がするし、わたしはそこにも再び同意するほかない。穏やかにすこやかな創意だけを表して生きるというのは、はるか遠い物価の安い南の島で何も望まず日々釣りでもして暮らすというような、出来なくはないはずなのに、誰もやらない夢の話だ。銀と金で梅谷は死人の考え方だと言った。
穏やかに生きていくことなどできやしない。常に創意を求めるような気持ちというのは業とでも呼ぶべきものだし、それはすこやかなるものなどではない。ご飯をおなかいっぱい食べたいと思うように、めいっぱい以外は存在しないし、それ以外は我慢なのだ。
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